大判例

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東京高等裁判所 昭和45年(う)1795号 判決

主文

原判決中被告人らに関する部分を破棄する。

被告人らはいずれも無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人小谷野三郎、同中島通子、同金子光邦、同大塚一男および各被告人がそれぞれ(但し、被告人森山一男と同原田甲子男は連名で)提出した控訴趣意書ならびに弁護人大塚一男、同伊達秋雄が提出した控訴趣意補充書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

ところで、右の各論旨を総括すると、原審の訴訟手続の法令違反、理由不備、法令の解釈適用の誤り、判例違反、憲法違反、事実誤認等多岐にわたつているけれども、本件においてなかんずく最も重要かつ決定的な論旨はなんといつても事実誤認の主張であり、かつ当裁判所の後記結論にかんがみれば、他の論旨に対する判断を経ることなく端的にこの点につき判断してもなんら妨げのない事案であると考えられるので、以下、記録を精査し、かつ当審における事実の取調の結果を参酌して、この点を中心として判断を示すこととする。

そこで、まず一件記録に当審における事実の取調の結果を綜合すると、次の諸事実が認められる。すなわち、昭和四二年四月一五日に施行された長野県議会議員選挙に際し、飯山市・下水内郡の選挙区から無所属ではあるが革新系候補として佐藤政男が同年三月三一日選挙の告示の日に立候補の届出をし、選挙事務所を飯山市大字飯山所在の小川屋旅館に設けて選挙活動に従事したが開票の結果落選したこと、右立候補の届出前である同月二六日小川屋旅館に約三〇名の同志の者が参集して選挙対策本部構成会議が開催され、荻原積が司会し、宮沢忠志が議長となり、まず先任の県議会議員滝沢登が佐藤候補を推薦する言葉を述べたのに続き、佐藤政男から立候補の決意を表明する挨拶があつたのち、選挙対策本部を構成する役員の選出が行なわれたこと、そこで、選挙本部総括責任者に右滝沢登、副責任者に宮沢忠志および広瀬一郎、事務局長に荻原積、出納責任者に飛沢寿、その下にあつて実質上出納の衝に当る副責任者に候補者と姻戚関係にある被告人外山信男、地域対策部長に市議会議員の経歴をもち社会党飯水総支部副支部長の地位にある被告人大口小太郎、遊説部長に市議会議員、社会党飯水総支部事務局長の地位にある被告人鈴木稔、情報宣伝部長に金沢博伊、農民対策部長に市議会議員の被告人大塚勇、総務部長に宮本善二郎、企画部長に木島村収入役・助役を経て市議会議員であつた原審相被告人六川博直がそれぞれ選出されるとともに、同選挙区が山間の積雪地帯で交通不便な広い地域にわたつているところから、従前の国会議員選挙、県議会議員選挙等の先例に従い、各地区の責任者を指命して末端の選挙運動の推進をはかるための方策がとられたこと、すなわち、栄地区は元教員で村議会議員であるとともに候補者と姻戚関係にある原審相被告人島田光世およびその教え子で栄地区選対の書記長格である被告人保坂貞良が、岡山地区は前記被告人鈴木稔が、太田地区は市議会議員で社会党飯水支部所属の被告人大口公男が、常盤地区は市議会議員の被告人沼田茂喜が、柳原地区は市議会議員の被告人大塚勇が、富倉地区は国会議員中沢茂一の後援会である北信振興同志会の同地区における責任者的地位にある被告人達家千秋が、木島地区は前記原審相被告人六川博直が、秋津地区は原審相被告人上原信重が、豊井地区は村議会議員の被告人原田甲子男が、永田地区は村議会議員の被告人森山一男がそれぞれ指命されて右会議は終つたこと、そして、終るに際し被告人外山信男の求めにより地区責任者に指名された者だけは会場からほど近い同市大字飯山一二一四番地の被告人外山信男方に集まり、そこで被告人大口小太郎の趣旨説明があつて同外山信男から被告人達家千秋、同鈴木稔、同大塚勇、同沼田茂喜、同大口公男、同原田甲子男、原審相被告人六川博直、同島田光世にそれぞれ現金一万円が手渡され、なお右原田には当日欠席した被告人森山一男に渡す分として現金一万円が合わせて交付されたが、右金員は被告人外山信男がかねて佐藤候補から供託金三万円を含め選挙資金として渡されていた金一三万円の中から交付されたものであることが認められる。

一ところで、原判決の認定するところによれば右の現金各一万円は、被告人大口小太郎および同外山信男が共謀の上同選挙の選挙人でありかつ選挙運動者である前記被告人達家らに対し、佐藤候補のため選挙運動を依頼し、その報酬および費用としてそれぞれ包括的不可分に供与しまたは供与の目的で交付したもので、これを受け取つた被告人らはそれぞれ右の趣旨を了して供与または交付を受けたものであるというのであるが、これに対して、論旨は、右金員の授受は、もつぱら選挙運動の費用の概算前渡しであるというので、まず右金員授受の趣旨につき考えてみるのに、一件記録によれば、右の事実の関係被告人らは本件の捜査段階においていずれも右の金員授受の趣旨が原判示のようなものであつたことを自白しているのであり、このことと、この金員を受領した者の中にはその後その一部を自己の税金や保険料の支払いに充てたり、その他自己の用途に費消した者もあること、もしその金員が選挙費用の前渡しであるならば本来作成されていなければならないはずの出納責任者の支出承諾書がその後も渡されていないこと、さらには、もし右の金員がもつぱら正規の選挙運動費用に充てられるものであるのならば必要に応じその都度直ちに支出してなんら差支ないはずであるのに、その授受に際して被告人大口小太郎が「選挙運動期間中はこの金は使わないように」という意味の注意を与えたこと(このように注意を与えたことは右被告人大口をはじめ他の被告人が原審公判廷でも認めているところである。)などとを合わせ考えると、この各一万円の授受については、その全部がそうであるかは別として、これを受領した者が選挙運動をすることの報酬として取得しないしは他の選挙運動者または選挙人に対する饗応などの費用とする趣旨をその中に含んでいるのではないかという疑いはどうしてもこれを払拭し去ることができないのである。しかしながら、他面

(一)  本件の捜査の状況をみるのに、本件捜査は投票日の翌日である昭和四二年四月一六日に原審相被告人島田光世および同六川博直を戸別訪問の容疑で任意出頭を求めて逮捕したことによつて始まり続いて翌一七日の早朝には早くも被告人大口小太郎宅が捜索されたこと、また、後れて同月二一日に逮捕された被告人達家千秋宅の捜索によつて後記のような党員手帳(当庁昭和四五年押第四五二号の四)が押収されたのにもかかわらずその記載内容については、捜査官のうち誰一人としてあまり関心を持たず、疑問をさしはさまなかつたことが認められるのであつて、これらの事情と担当捜査官の原審および当審における証言とを総合すると、捜査官側としては、前記金員の授受がいわゆる買収であるとの判断をかなり早い時期に固め、その判断を前提として関係被疑者の取調を進めていたことが推察される。そして、このことに加え、本件の捜査を担当し公訴を提起した検察官古屋亀鶴の原審証言によつても、被告人中に当初労務賃の前渡し費用だと弁解した者があつたことが認められ、また、報酬性を認めるにいたつた供述調書の記載自体によつてみても当初は報酬性を否定していたことが明らかなものが存在すること、および被告人外山が原審相被告人上原信重に対し三月三〇日ごろ小川屋旅館において現金一万円を供与したとして右両名が公訴を提起されたが、原判決において結局右の事実につき両名が捜査官に対してした自白は信用性がないとして無罪となつて確定した事実などにも徴すると、授受された金員の趣旨のごとき微妙な供述部分については捜査官の見とおしにもとづく誘導ないしは勾留中の被疑者の捜査官に対する迎合によつて真実が曲げられる可能性がないとは保し難いところであつて、一概にこれらの自白を無条件に信用することは危険であるといわざるをえない。

(二)  選挙運動の期間中選挙運動に従事する者に対し車賃、宿泊料、弁当料、茶菓料等の実費を弁償し、および選挙運動に使用する労務者に実費弁償のほか報酬を支給することは、法定の基準額を超えないかぎり許されるものであるところ(公職選挙法一九七条の二)、これらに要する運動資金を告示後はじめて地区責任者に配布するのでは選挙運動期間の開始と同時に敏活に選挙運動を展開することができないわけであり、ことに右選挙区のように山間僻地の積雪地域を擁して交通の不便な所では予め選挙運動資金を地区責任者に配布しておく必要が一層痛切なものがあることは容易に理解できるところである。そして、当日選挙対策本部構成会議において地域対策部長に選出された被告人大口小太郎および実質上の出納責任者に選出された被告人外山信男としては、すでに立候補届出の日もあと四、五日に迫つていたことでもあり、右会議で指命された地区責任者らを何度も招集することは困難であるから、その集まつた機会に予め選挙運動の費用の概算前渡しをしておこうとしたとみることはきわめて自然であるとともに、当審において事実の取調をしたところによつてみれば、同選挙区においては従来とも革新系候補の場合は本件のように選挙運動の費用の概算前渡しの方法をとることがむしろ慣例となつていたことが認められる。

(三)  佐藤候補は先任の滝沢登に代わつて急遽立候補するにいたつたものであるが、同人は最初から選挙資金が乏しいことを公言して立候補したもので、被告人ら地区責任者を含む支持者としては資金カンパや積極的な労務の提供等によつて選挙運動を推進しようとしていたと認められるところ、かような状況は、本件金員を授受した者の間に、その金員の一部にもせよこれを選挙運動の報酬として受領者の所得に帰せしめる意思があつたと認めるについてある程度の疑念を抱かせるものであることは否定しがたい。

(四)  さらに、地区責任者として右の金一万円を地区選対に持ち帰つた後の関係被告人らの行動をみると、これを受領した被告人の中には、前記のようにこれを自己の用途に使用した者がある反面、被告人達家千秋は地区の副責任者仲条邦夫に、同鈴木稔は地区の事務局長月岡四郎に、原審相被告人六川博直は地区の事務局長浦野照雄にそれぞれ趣旨を説明して保管を託し、同原田甲子男は被告人大口、同外山から託された金一万円をその晩のうちに豊津、上今井、永田の三部落の責任者である小林重一方に持参して相談のうえ、うち八〇〇〇円を永田地区の被告人森山一男に渡すこととし、残金二〇〇〇円を連絡費として自ら所持し、同沼田茂喜はそのまま保管していたもので、まちまちであるけれども、これらの被告人については、受領した金員の処置からみるかぎり、これを自己のものとして取得する意思があつたかどうかは疑わしく、少なくともこれによつて本件の金員が原判示のような趣旨で授受されたことを推認することは困難である。

(五)  本件の各一万円の金員が正規の選挙運動費用の前渡しであるとすれば、本来出納責任者の文書による支出承諾が必要であり、その授受の際にはまだ告示前で出納責任者というものは存在しなかつたから支出承諾書を作ることはできなかつたにしても、告示後直ちにその承諾書を作成しておくべきところ、投票日に至るまでについにその作成をみなかつたことが本件金員の趣旨について疑いを抱かせる一つの理由になつていることは前に述べたとおりである。しかしながら、一件記録によれば、当日右金員授受の席上で支出承諾書のことが話題に上つたことは関係被告人の捜査官に対する供述の中にすでに見えているところで、右のような話はあつたものの選挙の事務に不慣れな被告人外山がその後この手続を怠つたということも十分考えられるところであるから、これをもつてにわかにこの金員を法の認めない不当な使途のためのものであると断定するわけにはいかない。むしろ、その際支出承諾書の話が出たという事実は、この金員が正規の選挙運動の費用であることの一証左であるという見解も成り立たないではないのである。

(六)  特に本件で問題としなければならないのはやや後れて同年四月二一日に逮捕された被告人達家千秋宅の捜索によつて押収された党員手帳(当庁昭和四五年押第四五二号の四)の記載で、その三月二六日(日)の欄には、「県議候補佐藤氏選対会議当日一〇・〇〇受取地区ごとにポスターハリ及びすいせん状出し人夫に支払い受取をもらつておく一人七〇〇円以下菓子少しナラタベテモよい残金選挙終つたラカへす事」とあり、その趣旨は厳密には必らずしも判然しない個所もあるけれども、要するに三月二六日(日曜日)県議会議員に立候補する佐藤氏の選挙対策会議が開かれ、当日一万円(一〇・〇〇とあるが、他の証拠に照らし一万円と解する。)を受取つた、この金は地区ごとにポスター貼りや推薦状書きの人夫賃に支払うためのもので、支払つたときは後日精算のため必要なので受取をもらつておくこと、人夫賃の支払い額は一人につき七〇〇円以下にすること、少しくらいなら会合用の茶菓子代に使つてもよい、使用後の残金は選挙が終つたら返還すること、という趣旨に解される。そして、右メモは、被告人達家が後日になつて為にする意図で日記に書き込んだと認めるべき特段の反証も存しないのであるから、当日の会議の模様を心覚えのためその場でメモしたものと解するほかなきものであるが、これは一読して右会合の目的、そこで渡された金一万円の趣旨、目的、精算方法等を簡潔に表現する有力な証拠であるということができ、右によれば右一万円の中に選挙運動の費用の概算前渡しの趣旨が含まれていたことは認めざるをえないところである。しかも、そこに「残金選挙終つたラカへす事」という記載があることは、その前に書かれた諸費用を支出した残金を返すことを指すものと解されるから、この文面からすれば、残余の部分を受領者が自ら取得できないことはもちろん、これを他の用途たとえば選挙運動者または選挙人に対する不法な饗応などに使用することもできないことにならざるをえないのである。

そこで、以上(一)ないし(六)に説明したところを総合して考えると、本件の各一万円の金員はもつぱら公職選挙法の認める正当な支出のための費用の前渡しとして授受されたものではないかとの疑いが相当強いといわざるをえず、その中に選挙運動の報酬ないしは不法な饗応接待等の費用が含まれていたと認定するについては、合理的な疑いが存することは明らかだといわなければならない。

二原判決は、これに対し、本件金員がかりに選挙運動費用として授受されたものとしても、やはり違法な金員支出であり違法な選挙運動に伴う金員授受であるから公職選挙法二二一条一項に該当することになると説示する。そこで、まず立候補届出前に選挙運動費用を前渡ししておくことの当否について考えてみるのに、同法一八七条一項と二項とを対比して考察すると、法は立候補届出前においては立候補準備のための支出のみを認め、選挙運動に関する支出はすべて立候補届出後でなければこれをすることができないとしているとも解されないではない。しかしながら、前にも述べたように、本件の選挙区のように交通の不便な地域を擁する選挙区において立候補届出と同時に一斉に選挙運動を開始するためにはあらかじめ選挙運動に要する資金を各地に配布しておく必要が大であることを考えると、各地区の責任者となるべき者にあらかじめその資金を前渡ししておくことは、選挙運動をしようとする者の内部における一種の立候補準備行為であるということもでき、法がそれまで禁止しているものとは思われない。もつとも、選挙運動に関する支出を法定の額内に止めるためすべてこれを出納責任者の管理下に置くこととしている現行公職選挙法の建前からすれば、右の前渡しについても当然立候補届出と同時に出納責任者の文書による追認を必要とすると解しなくてはならず、その意味ではこの前渡しは一種の仮渡しの性質を有するものと考えられる。ところで、原判決はこの点に関し、本件の金員前渡しはその際支払先、使途が具体的に予定されていなかつたから違法であるようにいうが、選挙運動の具体的な実施方法は情勢に応じてその都度決定されるものであらかじめ細目まで決めておくことのできないものであり、本件のような場合それをある程度地区責任者の判断に任すほかないことを考えれば、前渡の際にその支払先や使途が具体的に定まつていなければならないというのは不可能を強いるに近く、とうてい実際的であるとはいえないし、またそうしなければ公職選挙法が選挙運動に関する支出を規制している趣旨を没却することになるとも考えられない。ただ、本件の場合、各地区責任者に対する費用の配布につき出納責任者の文書による承諾(追認)の手続をついに経なかつたという原判決指摘の点はたしかに問題で、その点は違法であつたといわざるをえないところである。しかし、その違法は同法一八七条一項の規定する費用支出に際しての手続を履まなかつたという意味での違法なのであつて、その手続を欠いたがゆえにその授受された金員の性質が実質的に変ずるというわけのものではなく、その違反に対しては別に同法二四六条四号の罰則が存在するのであるから、もしこれをとがめるのならば当然同条項によるべきものであつて、その手続に違反したことを理由として同法二二一条一項を適用することは明らかに誤りだといわなければならない。なお、原判決はさらに、右の金員の授受はいわゆる事前運動にあたるから同法二二一条一項に該当するようにもいう。しかし、それが事前運動といえないことについてはのちに説示するとおりであるばかりでなく、かりにそれが事前運動に該当すると仮定しても、それは立候補届出前の選挙運動なるがゆえに違法とされるだけのことであつて、その行為の内容の当不当はまた別の問題である。それゆえ、事前運動であることを理由に本件金員の授受が同法二二一条一項に該当するという原判決の見解にもとうてい賛同することができない。

以上の次第で、前記の金員をもつぱら選挙運動費用の前渡しとみる以上、これに対し同法二二一条一項を適用することができないことは明らかである。

三次に、原判示第四の(二)および第五の事実、すなわち被告人原田甲子男が同年三月二六日ごろ被告人森山一男方で同人に対し現金八、〇〇〇円を供与し被告人森山一男がその供与を受けたという事実に関しては、一件記録によれば、右の金員は被告人原田がすでに述べたように同日ごろ被告人外山方で被告人森山に渡すため託された現金一万円の一部であり、その委託の趣旨に従つて手渡したものであることが明らかである。そして、被告人森山が永田地区の責任者として外山らから金一万円ずつの配布を受けた他の被告人と全く同じ立場にあつた者で、ただたまたま当日欠席したため被告人原田がこれを託された事情からすれば、その金員の趣旨も他の被告人に対するものと全く同一であるとみるべきであるから、これを原判示のような趣旨のものと認定することには重大な疑いがあること、すでに述べたところからしても明らかだといわなければならない。

四さらに、以上の諸事実のうち、被告人大口小太郎および被告人外山が三月二六日に各人に現金一万円ずつを配布したことならびに被告人原田が被告人森山に対し現金八、〇〇〇円を渡したことが立候補届出前の選挙運動に該当するかどうかについても考えてみなければならない。

思うに、現行の公職選挙法のもとにおいては、選挙運動はすべて立候補届出後でなければすることができないわけであるけれども、選挙運動に備えてポスター、立札、看板の類をあらかじめ作成したり、選挙運動のために使用する葉書をあらかじめ印刷したり、選挙事務所借入の交渉をしたり、選挙運動資金を調達したりすることが立候補準備行為として立候補届出前にもなしうることは疑いのないところである。そして、前記の金員の交付行為も、すでに述べたようにこれを選挙運動費用の前渡しとみるほかないことを前提とすれば、それが選挙運動の準備行為とて必要であることは前記のとおりであり、選挙運動に携わろうとする者の内部での資金の授受に止まるものであるから、右の授受行為もまた選挙運動の準備行為であつて選挙運動自体ではないと解するのが相当である(大審院昭和一一年(れ)第一五八三号同年一二月五日第五刑事部判決、刑集一五巻一五五七頁参照)。したがつて、原判決がこれを立候補届出前の選挙運動にあたるとしたのは、ひつきようその金員授受の趣旨を原判示のように誤認したためであると解するほかはない。

五さらに、原判示第三の事実、すなわち被告人保坂貞良が、(一)昭和四二年四月一日ころ自宅において、佐藤候補の選挙運動者である島田光世から同候補者の選挙運動を依頼され、その報酬および費用として供与されることの情を知りながら、妻一子を介し現金五〇〇〇円の供与を受け、(二)同月一三日ころ島田光世方において、同人より右趣旨で供与されることの情を知りながら現金一〇〇〇円の供与を受けたとの事実について、弁護人および被告人本人は、(二)の現金一〇〇〇円については全く授受の事実がない、(一)の現金五〇〇〇円については選挙運動のための費用の前渡しを受けて保管していたものであるというので考えてみるのに、まず(二)の現金一〇〇〇円については、原判決が証拠とした被告人保坂および原審相被告人島田光世の検察官に対する各供述調書によれば金員の授受および趣旨において原判決の認定に副う供述が存在するけれども、原審における被告人保坂の公判供述によれば、自分は選挙運動期間中しばしば飯山市の佐藤候補の選挙事務所まで票読みなど選挙情勢の報告や連絡に赴いたのであるが、昭和四二年四月一三日ころ前記の選挙事務所で事務局長の荻原積からら五、六回分の旅費として一一〇〇円を受取つたことは間違いないけれども、同日ころ右島田から同人宅において金一〇〇〇円を受取つた事実は全くない、この点につき捜査段階においては、極力否定したのであるが、捜査官から島田は君に渡したといつているといわれて心ならずも事実を認めざるをえなかつたものである旨弁解し、右弁解は供述の前後の関係等からみて一概に排斥しえないものがあると認められるところ、島田が死亡している現在においては、もはやそれ以上この点を明らかにするに由なく、結局、右の金一〇〇〇円については、授受そのものについて十分な心証を得ることが困難である。次に、前記(一)の現金五〇〇〇円については、金員の授受自体に争いはないところ、一件記録に当審における事実の取調の結果を総合すれば、前記三月二六日小川屋旅館において開催された選挙対策本部構成会議には被告人保坂貞良も栄地区選対の書記長格として、右会議において同地区責任者に指命されるにいたつた前記島田光世およびほかに久保田伝八とともに出席し、これに続く被告人外山信男方における会合にも一時居合わせた後、右三名が同じ汽車で帰宅したものであること、栄地区は旧堺部落(西部・東部)と旧水内部落とが合してできた地区であるが、島田が受領してきた一万円については、すでに車中において島田からうち半分の五〇〇〇円を水内地区に渡す話しを聞いており、四月一日被告人保坂の留守中に島田がポスターとともに金五〇〇〇円を持参し、保坂の妻一子がそれを受け取つたこと、被告人保坂はそれを水内地区の選対責任者広瀬一郎方に持参して同地区の運動資金として伝達しようとしたところ、同人から水内地区でかかつた分は後日請求するからこの金は預つておいてくれといわれて被告人保坂はそれを自宅に持ち帰り、うち二〇〇〇円を一時母に使わせたことはあるけれども直ちに回収して全額を自ら保管していたと認められるのであるから、以上の経緯にかんがみれば、右の金五〇〇〇円も前記被告人達家らの金一万円の場合と同様、選挙運動のための費用の概算前渡しの趣旨で授受された疑いが強く、とうてい原判示のような趣旨のものとは認定しがたいから、原判決の右認定部分も事実誤認があるといわざるをえない。

以上に説明したとおり、原判決中被告人らに関する部分にはその認定した全事実につき事実の誤認があるわけであり、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、その他の論旨に対する判断を省略して刑訴法三九七条一項・三八二条により原判決中被告人らに関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して被告人らに対する被告事件につきさらに判決するのに、被告人らに対する本件公訴事実はすでに説示したところから明らかなようにいずれもその犯罪の証明がないことに帰着するから、被告人らに対し同法三三六条後段により無罪の言渡しをすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(中野次雄 寺尾正二 粕谷俊治)

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